私の履歴書

RESUME
ふりがな
  • むら
  • よし
  • ひろ
氏 名代表取締役田村 佳寛
2003年10月 株式会社田村商会とアミティーハウス株式会社の代表取締役就任
〈経歴〉聖マリア幼稚園卒園
池田市立呉服小学校卒業
池田市立池田中学校卒業
関西大倉高等学校卒業
京都産業大学法学部卒業
〈主な役職〉(一社)大阪府宅地建物取引業協会代議員 北摂支部評議員
池田西地区長、財政委員長
池田商工会議所 1号議員、池田ライオンズクラブ第一副会長
関西不動産情報センター理事
池田市公益活動促進協議会理事
〈資格〉宅地建物取引士 兵庫 第34199号
公認不動産コンサルティングマスター (4)第26519号
損害保険募集人試験合格

野球少年だった、幼少期。

小学校時代(2年生から5年生)には地元の少年野球チーム「池田ジャガーズ」に所属し、猪名川グランドで練習をしていました。
ポジションはセカンドで、6番か8番の打順でした。試合中ベンチではいつも声が嗄れるくらいの大声でチームの応援をして、
チームのムードメーカーとして盛り上げていました。

中学時代は、バスケットボール部に所属し、3年間頑張りました。入学時の身長は140cm程度でしたが、
卒業する頃には163cm位になっていました。スターティングメンバーには入れませんでしたが、
すばしっこいポイントガードとしての特徴をアピールするためにドリブルやフェイントを磨く練習を独自に考え、一生懸命していました。

あの人気ドラマで話題になった
スポーツに憧れていた、思春期。

高校時代は、ラグビー部に所属し、3年間頑張りました。ラグビーは当然初体験ですが、
小学校の時に「スクールウォーズ」という山下真司さん主演の京都の伏見工業高校を題材にしたテレビドラマが流行り、
ずっと憧れていたスポーツでした。しかし、現実はそう甘くありません。
練習のしんどさは想像以上のもので、ついていくのが毎日必死でした。
ですから、1年生で一緒に入部した部員は30人以上いましたが、最終的には半分ぐらいしか残っていませんでした。

また、顧問の先生は部員全員から恐れられる本当に怖い存在でありました。
いつもサングラスをかけ、ベンチに腰をかけて練習を見ておられるのですが、少しでも気を抜いたり、ミスをするとすぐに呼びつけられ、
よく怒られました。今は非常に穏やかな表情でやさしく指導されているようですが、
卒業してからたまに夏合宿に差入れを持っていく時でもお会いすると未だに直立不動になり、緊張しています。
しかし、徹底的に鍛え上げられた結果、それが自信になり、何事にも諦めることなく前進する原動力になっていますし、
「One for All, All for One.」という有名な言葉の意味を体感することができました。
きつい練習で寝ている間に足がつるくらい体が疲労していましたので、何度もクラブ活動をやめようと思いましたが、
先輩や後輩、そして支えであった同級生のおかげで踏みとどまることができましたので、今の自分があると思って感謝しています。

おいしい珈琲の淹れ方を極めた、
青年期。

大学時代は、京都でしたので大学の近くにワンルームを借り、初めて一人暮らしをすることになりました。
最初の1年間は仕送りをもらっていましたが、バブル崩壊になり、親からの仕送りがほとんどなくなりましたので、本格的にアルバイトをすることなりました。

京都では有名なチェーン展開する喫茶店で深夜のアルバイトをするようになり、他の大学の友達も沢山でき、ほぼ毎日働いていました。
お店では粗挽きネルドリップ方式でコーヒーをたてていましたので、よりおいしいコーヒーを提供できるように研究し、味を極めることを目標に頑張っていました。
そして3回生からは会社法について勉強するゼミに所属し、沢山の友人とともに大学生活を楽しみながら勉強も要領よくしましたので、
4回生になるまでに卒業に必要な単位は全て取得しておりました。ですから大学生活の最後の一年間は週に一度ゼミに通うだけとなり、
かなり寂しかったですが、学生生活最後に同じゼミのメンバーで行った初めての海外旅行「グアムへの卒業旅行」は本当に楽しくいい思い出です。

挫折続きだった、社会人生活。

社会人としての第一歩は関西のマンションデベロッパーに就職することから始まりました。
最初に配属されたのは企画部というセクションで主に不動産市場の調査をすることが仕事でした。
毎日近畿圏内の色々な新築マンションのモデルルームや現地を訪れて相場観や地域特性を学ぶことからはじまり、
商品企画や他社の動向を学んでいましたが、毎日営業部からあがってくる土地情報に対して
再販価格や周辺での供給状況などをコメントできるようになるまでほぼ1年かかりました。
しかし、1年目にじっくりと時間をかけて市場動向やマーケティング等を学ぶことができたことは後々にとても活きてきました。

2年目には希望していた営業部に配属され、いよいよマンション用地の仕入れから企画、施工、販売までをトータルにプロデュースすることになりました。
期待に胸をふくらませ臨みましたが、まず一番必要な用地取得という第1段階で躓いていました。
色々な不動産業者にマンション用地情報の提供依頼をしてまわるものの、なかなか情報はあがってきません。
当然といえば当然ですが、不動産会社とのネットワークが構築されるのには最低でも2〜3年はかかりますし、
マンション用地を探している会社は大手から中小までかなりあるわけですから、
つきあいのほとんどない若手社員に良い情報をくれるわけがありません。
粘り強く不動産業者に何度も足を運んだりしましたが、結局1件の用地も取得できませんでした。
土地情報を紹介してくれる不動産業者との信頼関係が構築することの難しさと横のつながりの重要性を痛切に感じた1年でした。

そして3年目以降はマンションの販売現場に配属になり、芦屋市や西宮市のモデルルームでお客様との商談をはじめて経験しました。
ここではじめて顧客ニーズというものを知ることになります。
今まで現場を知らずにこちらのイメージや机上の資料だけで間取りや商品企画、価格設定を考えたりしていましたが、
それではお客様が満足する良いものは創れないことが分かるようになってきました。
またお客様と接しながら仕事をするというサービス業の面白さを感じたのはこの頃からであります。
ひとり一人のお客様の事情をお伺いし、そのお客様にあったものを提案するという仕事に魅力を感じるようになりました。
そしてマンションの販売戦略についても基本から応用まで学ぶことができ、最終年度の5年目にはセミオーダーメイド型のマンション販売について
自ら提案した企画を採用してもらい、芦屋市の山手に建つ眺望の優れた分譲マンションで実施することができました。

ちょうどそのマンションが竣工し、棟内モデルルームでの販売活動がほぼ終わろうとしているときに
父親から「そろそろ仕事を手伝ってくれないか」という話があり、家業である不動産屋を継ぐために退職することになりました。
このたった5年間のサラリーマン生活は、現在の自分自身を形成するうえでとても貴重な経験となり、
本当に多くのことを学ばせていただきました。
私がお世話になりましたアーバンライフ株式会社の創業者である廣瀬様は経営者の模範となるような人格者で
今でも深く尊敬しておりますし、本当に心から感謝しております。

そして退職から2日後、平成12年5月1日より株式会社田村商会に勤務し、
事務所は50年以上営業しておりました以前の場所から阪急池田駅前サンシティ池田1階の店舗に移転し、
地域に密着した街の不動産屋となるべく、新たなスタートをきりました。
平成15年10月22日2代目社長でありました父田村元彦が突然逝去した後、私が後を引き継ぎ、現在に至るわけでございます。

池田で働く不動産屋の日記